昭和五十二年九月五日 朝の御理解
御理解第二十六節 「信心に連れいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」
「日に日に生きるが信心なり」。ただ生きておるというだけではない。日に日にいうならば自分の信念に基づき、み教えに基づいて生きること。そのことが信心だ。しかもそれは一生懸命のものでなからなければならない。いうなら一日一日が信心であり、だから一日一日信心が進んでいくわけですから、もう昨日のことは一つの抜け殻の様なもんだ。だから、いうなら日に日に自分を空しうするということ。自分をなくした生き方。信心の教えを基にするということは、自分を空しうしなければ信心の教えを完全に、完全にというか本当に頂くことは出来ません。だから一日を空しうして行く、一日一日を空しうして行く。そして明くる日に更に生まれてくる命がまた、信心に取り組む。そこに立って初めて、「日に日に生きるが信心なり」というもう何ともいえん言い様のない程の力強いものをそこに感じます。そこにそれぞれの信心、いうならば信心個性とでも申しましょうか。その行き方は違ってもギリギリのところを本気で、信心を頂いていこう、求めていこうとする姿勢が必要です。
昨夜、私遅う出て、ここもうやんがて一時頃だったでしょう。お広前は真っ暗ですから、ここを電気つけておりますと、お広前こっちの方は真っ暗で、分かりません。誰が御祈念しよっても分からんです、真っ暗ですから。そしたらちょっと見たら栄四郎が昨日は正奉仕でしたから、黒衣を着てここに頭を下げとるもんですから、真っ黒うするからいっちょん分からんです。それであんた、そしたらもう虫の動きもしませんもん。それが頭を付けとったから、もう眠ってしもうとったでした。まあ、私が晩出てくるから出てくるまでここに居ろうと思って頭を下げとって、そのまま眠ったのでしょう。もう一時過ぎてました。それからお届けをして、早う休まして貰いなさい。それから昨日の日誌を読ましてもらい、それから御祈念に入ったわけでございますけれども、御神前に出らせて頂いたら、そのこれは栄四郎だけではないですけれども、丁度この黒衣ではない普通の着物の人もあるけれども、皆和服です。それが全部手をダラッとこうしてね。丁度いうならばよくお芝居なんかでやります生き人形、人形使いをしますですね。それで人形になっているわけですから、後の方で使い手によって手がまあ、いわゆる文楽の人形の様な所作をする、いわゆる所作ものなんです。そういう例えば人形がズラーッと御神前に現れましたからね。あら、誰だろうかと思ったら、ここの御信者さんばっかりで、またここの修行生ばっかりなんです。その一番初めに栄四郎が和服、そして皆が左胸です。この着物をつくらっておるのが全部和服です。そして左胸につくらって、あのいうなら人形使いが手を上げる、足を上げろと言や、そのまま眼も開く、足を開くという姿勢をとっておる様子でした。この左胸ということは合楽の、いうなら考え方ということでしょう。胸ということはやはり心のことです。胸に手を当ててとこう申しましょうね。だから左胸というから和服でなからなければ御理解にならないわけなんです。皆が和服を着ている。左胸で、そして人形になっておる様子でございました。 甘木の初代が私は操り人形だとおっしゃった。天地の親神様が人形使いなら、私は操り人形。手を上げとおっしゃれば手を上げ、足を上げれとおっしゃれば足を上げる。それが例え、人が見て右を上げんならんとに左どん上げとるといった様に笑うても、神様が手を上げとおっしゃるから上げるのだ。回れ右と言われるから回れ右するのだ。目を開けと言われるから目を開くのだ、というわけなんです。本当に神様が人形使い、私どもがその人形にならせて頂くまでの信心がです。「一人信心せよ」という。「日に日に生きるが信心なり」という。もうそこには連れは寄せ付けられないです。連れはいらんです。もうそれこそ私は私の道を行くという、そういう人形になる前の前提、本当に神様任せになるまでの、いうならば以前のものがです、そこにいるということを感じます。
ここでは皆さんが親先生任せと申します。昨日もある方が手紙を、もうそれこそ便箋十枚位沢山、姉さんが妹さんのために手紙を書き送っとるのです。妹さんがある人間関係で悩んで苦しんでおります。それで先日から遠方に行っとりますから、こちらに来て姉妹いろいろ話したけど、話が足りないでその自分の思いのたけを切々と、私は読みながら本当に神情というのは、こういうのが神情だろうと涙がこぼれました。そして今、「あんたが気に掛からん様にお金を五千円入れとくからね」と言うて、お小遣いが入れてあるわけです。これはもうやっぱり親身でなければ出来ることじゃないですね。慰めとか励ましとか言うけれども、最後に例え五千円の金でも、そんなに自分も楽でもない中から妹のために入れてやる。そしてね、妹の名前を何回も何回も繰り返して言いながらです。「あんたは親先生というああいう素晴らしい先生を頂いとるじゃないか」と。ここに親先生の思いに添い、親先生の言われることに添うていかなければいけない。もうそのことだけをもう切々と十枚位の便箋に書いているのです。私は昨夜ここでそれを読ませて頂きながら、本当にどげんこれは親先生といいながら、これだけは言うことが聞かれんちゅうのがあるわけ。ですから結局親先生任せにならせて貰える以前の信心がいかに必要かということが分かるです。どんな時でも親先生任せにさえなればという腹の出来るまでは、だから、いうならば「一人信心せよ」です。しかもその信心が、ただ参りよります拝みよりますというのではなくて、もう日に日にが自分というものを空しうして行く稽古なんです。教えは皆そうです。教えが右と書いてある。自分は左と思うておるなら、その左と思っておることを空しうして行かねば、教えに添い奉ることは出来んのですから。日に日に自分を空しうする稽古、その自分を空しうしていく稽古をするからこそ、いよいよもうこれだけはいくら親先生が言われても、親先生の言う事、言うとおりになれないことが、楽に平気で行けれるわけです。姉さんの方は、そのことをもうそれこそこちらに居りました時分から、もう体験した上にも体験して、どんな生命に関わる様なことでも親先生任せになっとれば、おかげを頂いてきた。「あんたも一生懸命になれば熱心に信心させて頂いておる。もう兄弟五人も六人もおるけども、私はあんたが一番好きだ」と。だから「あんたが信心をする。兄弟何人も居るけれども、その信心を本当にするのは三人しかおらん。しかも親先生、親先生と日頃言っておるあなただから、これが例えばどんなにそりゃもう分からんことはないけれども、ここは一つ親先生任せになって、いますぐとは言わんけれども、そのことをお取次ぎを頂け」とこう言ってます。私は、この辺のところがね素晴らしいと思うのです。どうぞ親先生の心任せにならせて頂けれる心の状態にならせて下さいと祈り願うことなんですね。そして私は昨日、栄四郎が日誌に書いておる所感のところの読ませて頂いてです。これが今日、私が御理解を頂いて感じたんですけども、いよいよ親先生任せにならせて頂ける以前の信心を一生懸命に彼なりにやっておる様子が書いてございます。ちょっと読んでみましょう。 「私は義理や人情で動くものではない。また我情で動くものであってもならない。私は神情のままに動くものである。行には真が出来ておらず、口に真を語るなら神様はそれをどれ程淋しく思い、悲しがられるであだろうかと、栄四郎だから。」と書いてあります。栄四郎とは大体「栄城」と頂いたんですけどもね、それは栄城だからと。「それまでは努めて口に真を語りません。待っていて下さい。必ずやります。」と書いとるですね。ですから「待ってて下さい。必ずやります。」ということは、今私なんか信心して、いうなら我流の我が<ええごと>わがままな信心をさして頂いとりますけど、それはそこまでになるまでの前提のところを今辿っておるのです。口に真を語りつつ、心に真のなきことと言う、言われておりますから、私に心の真がないから、口にはもう語りませんと、いうふうに言っているわけです。それを必ずやりますということは、その信心が出来た時にです、いよいよやりますというのは、親先生が右向けと言う時は右、左向けと言えば左に行かせて頂けれる私にならせて頂くというものを感じたんですね。だから自分の都合のよかことは、お伺いして右とか左とか位のことなら誰でもしますよ。そしてそれが段々体験が積んでいって、そのなるほど先生が言われる通りした方が儲かるとか、分がええとかという事なら誰でもなりますよ。けども親先生が言うたとおりにしてから損をした、反対に結果が悪くなった。と言うても任せると言うのですから、やっぱり見易いものとは思われません。
なら<甘木>の初代あたりでもです。本当に親神様任せに、親神様が右とおっしゃれば右、左とおっしゃれば左という道を辿られる時には、随分世評もひどかった。いうなら非難をした人も随分あったろうと思うです。笑うた人もあったかもしれん。けれども神様の仰せには背かれない。これは私の信心ですけれども、人から笑われても神様から笑われちゃならんという行き方が段々信心修行の中にはっきり分からせて頂き、頂かせて頂けるようになってきたね。
今、栄四郎が辿っておるところ、今手紙を申しました本人の形のところというのはです。どういう事かというと、本当に親先生任せになる以前の信心をそれこそ、まあ一生懸命血みどろになってそのことに取り組んでおるのです。そして嬉しいですね、最後に必ずやります。もう出来なくても安心が行きますね、親として。お取次ぎを頂く、お願いをする。私は本気で真の信心を分からせてもらいます。一つ真の信心を分からせて下さい。必ず真の信心を頂きますというふうにです。まあそれが言葉に出してお願いが出来るということは、取次がせて頂く者としてはこんなに嬉しいことはありません。お願いしとって、<出来もせんなら>どんこんされんけんと言ったような、出来んでも良いですね。本当に自分の心にそういう心がわいてきたならば、そのことをお取次ぎを願わせて貰うて、お取次ぎを頂くぐらいな勇気がいると思いますね。初めてそこからです。神様が右向けとおっしゃりゃ右を向き、左を向けとおっしゃれば左を向く、手を上げとおっしゃれば手を上げれる、いうならお互いがまず、その以前の信心からもういよいよ親先生任せになる外はない。信心を進めていくということは、真の信心を頂くということは、親先生任せの信心をする以外にはないという、いうならば一心発起が出来るまでの信心を皆さんがなさっておられるわけです。そして、ギリギリのところは私がその御心眼に頂きます様に、栄四郎が昨夜言っておる事は、ここに書いておる事はですね、必ず親先生の前に操り人形になりますというのではなかろうかと私は思わせて頂いてます。
先日から修行生の方達に赤紙がきておる、召集令状が来ておる。しかも七時半に来て、もう九時半には発たなけりゃならん。それを皆が「ちょいとそれじゃ困ります。」という者は一人もいなかった。もうとにかく出来る出来んは別として、とにかく時間に間に合うようにと言うて、皆が身ごしらえをしておるところを頂いて、なら今の合楽で修行しておる人達はです。本気で親先生任せにならせて頂くという命を私に預けておるというところにです、ははあ実際は出来よらんばってんが、その思いがね、尊いと私は思いました。そりゃ手を上げ足を上げと言うてもです、例えばそのやはりぎこちないね、右足上げろと言うのに左足上げる様なことがあるかも分からん。けれども、あの人形に血が通ったようにです。素晴らしい名人芸というのはです。もうそれは人形以上の所作も情も出るのがあの文楽人形です。とても人間で勝てはしませんです。あの身のこなしでも動きでも、もうとにかく心が乗り移ってしもうたかの様に操り、また操られておるわけです。
だから、私どもが本当に一つ、神様の前に操り人形にならせて頂こう。それが一遍には出来ません。「日に日に生きるが信心」です。「日に日に生きるが信心」とは日に日に自分というものを空しうしていくことなんです。教えを守るということは、自分の我情があっては教えは守られません。だからそこのところを一生懸命毎日毎日は半死半生かもしれません。このことは聞けたけど、このことは聞けなかった。それで良いです。そういうおかげを頂きながらです、いうならばスッキリと神様任せにならせて頂くということが、こんなに尊い有難い事なんだと分からせて頂くところからね、神様の良き操り人形ということになるのじゃないでしょうか。いうならば神様の御心次第に動けれる私達になるのじゃないでしょうか。いうてみれば親先生の言いなさる通りにすればよかとじゃから、こげん見易いことはないごたるけれども、そこに嫌、これだけはというところがあるのですから、それだから日々の連れはいらんという、そういう信心にまたありもせんし、ついても来きりませんでしょうけれども、めいめいのところでです。いうならば一人ひそかにして信心をさせて貰う時期をね、与えられて、そして自分を空しうして行くところから、明くる日、新たなものが生まれて来る。新たな信心とはそういう信心からしか生まれて来ないと思うね。昨日の自分が空しいもの、そして今日初めて生まれた私。そこから新たな信心が頂けれるのです。
昨日、神愛会でしたから、先生方皆集まっていろいろ研修させて頂きました中で、あの若先生がこういうことを言っております。「もう親先生、あなたは教団といった様なものを対象になさらずに、世界を対象にして下さい。社会の宗教を対象にして下さい。例えば今朝あたりの御理解を、昨日の御理解なんかを頂いておって、もう本当に釈迦とキリストを一つにして、そして合楽の信心がまた別にあるという感じがするんですよ。例えば、あの「天真地心」なんていうのは、もういうなら釈迦の信心であり、またはキリストの信心です。ですから親先生、あなたは世界の、あの教団のこと言うたって、昨日、いろいろ教団の内容のことについて、いろいろ話を聞かせて貰ったんですけれども、それをもうそこで一喜一憂なさるようなことではいけんと私は思うです。」という様な発言をしよりました。
だから、「私も大体はそんな気持ちでおるけれどね」と言うたことでしたけれども、そのことを昨夜御祈念さして貰いよりましたらね。例えば泉尾の三宅先生なんかが教団のことは問題にしておられないという感じですね。もう堂々と、いうなら泉尾の信心を正面に打ち出してしておる。それでいて世界中を駆け回って、いうなら世界総助けといった様なね、その信心を現わして世界のあらゆる宗教家なんかとの会合を持たれて、本当に席のあたたまる暇もない様におかげを頂いておられるのが泉尾です。そしたら昨日私が頂きますことがね、合楽の場合は内から生みなして行くとおっしゃるですから。合楽の場合は生みなしたものが出て行くのだとこういうのです。例えばビリグイなんかが海外布教の第一号なんです。ここから生みなしたものが生みなされたものが出て行くんだと。だから、サッサと生みなして行かなきゃならない。ならそれは今日の御理解で言うとどういう事かと言うと、本当に親先生任せになれれる、親先生の操り人形としてです、いうならば出来れる人達が望まれ願われておるということを思います。だからまず内なる人、いうならば合楽教会に縁を頂いとる人達、その人達がです、まず合楽理念を本気でマスターさして貰うてです。いうならば本気で、いつでも親先生任せになれれる、どんなことがあってもなれれるというような信心を頂いて、本当に神様任せになるということは、このようなもりもりとした力が頂けるんだ、こういうおかげにも繋がるんだという体験者が沢山出らなければならないということでございます。だから親先生の前に操り人形にならせて下さい、私こそ操り人形になりますと、いうならそういうお取次ぎを願ってです、皆さんが信心を進めて行かれることになればね、また別な働きも起こってくるという風に思います。
合楽はどこまでももうここから生みなされて行くもの。それが各地に広がっていくという行き方。私が世界中を飛び回るとか、世界のことを祈り願うことは同じです。それは拝詞にも以前ありました様に「世界総氏子身上安全、世界真の平和達成の御神願が御成就に相成りますように」ということなのですから。だから、まずは日本中がです。真の平和と繁栄を頂かして貰い、その繁栄と繁昌が世界にも繋がる様な繁栄であり、繁昌でなければならないし、世界総氏子身上安全、世界真のいうならば、助かりというようなこともです。まずは合楽に御縁を頂いとる人達が、まずは助からなければいけないということです。そしてその助かりが教団の助かりに繋がり、日本中の助かりに繋り、日本人の助かりが、そのまま世界の総氏子に繋っていく程しの助かりにならなければならんのですから、まずは私が助かり、皆さんが助かりというためにはね、その人形になる以前のものをしっかり身に付けていく、いよいよの時に操り人形にならせて頂けれる、赤紙が来たならいつでも否応いわずに、「はい」と言えれる信心をです、身に付けていきたい。その様にこの信心は、二十六節は厳しいものを感じます。
「日に日に生きるが信心なり」。もうこのことを聞いただけで、何か胸がジーンとする位なものを感じる内容を持ってます。信心とは「日に日に生きるが信心」、ならば今日あたり頂いた様なことが内容だから、生き生きして来るんですよね。
どうぞ。